『アイネクライネ』歌詞(歌ネットへリンク)
今日は米津玄師『アイネクライネ』の歌詞を読みます。
「アイネクライネ」はドイツ語です。Wikipediaによれば「ドイツ語でEineは女性形の不定冠詞、kleineは「小さな」の意の形容詞kleinの女性形」とのことですから、『アイネクライネ』を直訳するなら「小さな○○」とか「かわいい○○」みたいな感じになりそうです。
歌詞のほうはこんな感じ。
あたしあなたに会えて本当に嬉しいのに私はこれを読んで、強く想起した曲があります。米津玄師『サンタマリア』です。『サンタマリア』の歌詞は、主人公が父親で、生まれたばかりの子どものことを歌っているのだと私は思っていました。
当たり前のようにそれらすべてが悲しいんだ
今痛いくらい幸せな思い出が
いつか来るお別れを育てて歩く
『アイネクライネ』の主人公は、母親です。そして、子どもは『サンタマリア』のときと同じ子です。
今回はそんな仮定でこの歌詞を考えていきます。
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石ころになりたい
あたしあなたに会えて本当に嬉しいのに私の妄想の中では、今回の主人公は母親です。母親が生まれたばかりの「あなた」に語りかける、そんな曲です。しかし「あなた」には重い障害があります。長くは生きられないと宣告を受けた境遇です。
当たり前のようにそれらすべてが悲しいんだ
今痛いくらい幸せな思い出がそうだとすると、1連の続きも少しわかる感じがしてきます。「今痛いくらい幸せ」はすぐに「思い出」になってしまうし、「お別れ」はいつか来るとわかっているし、それがだんだん「育って」いくのも感じられます。主人公がこうして子どもと一緒にいられる時間は、長くないのです。
いつか来るお別れを育てて歩く
誰かの居場所を奪い生きるくらいならばもう主人公はそんな境遇から逃げ出したい気持ちです。子どもに障害があってもなくても、子育てをしていくには周囲からの理解が不可欠です。でも主人公にはそれが「誰かの居場所を奪い生きる」ように感じられるのでしょう。
あたしは石ころにでもなれたならいいな
ほんとうは違うのに。
だとしたら勘違いも戸惑いもない障害を持つ子どもを育てるなら、その過程で心ない言葉を浴びせられることもあるかもしれません。主人公は、そんな周囲からの「勘違い」や「戸惑い」に耐えられません。だから自分は「あなたまでも知らないまま」の石ころになってしまいたいと嘆きます。
そうやってあなたまでも知らないままで
主人公は周囲とのコミュニケーションも、「あなた」とのコミュニケーションも、ぜんぶあきらめようとしています。
あなたにあたしの思いが全部伝わってほしいのに主人公は自分の気持ちが「あなた」に知られるのを恐れません。何もかもから断たれたいと思っていること、バレてしまってもいいと言っています。
誰にも言えない秘密があって嘘をついてしまうのだ
なのに、「あなた」の前ではなぜかそんなこと言えません。自分の子どもを前にして、コミュニケーションをあきらめているだなんて口にできません。
「誰にも言えない秘密があって嘘をついてしまう」と主人公は歌います。でもきっと「秘密」の正体は主人公にもわかりません。
あなたが思えば思うよりいくつもあたしは意気地ないのに主人公の考え方はネグレクトのようです。「あなた」の期待に添えない主人公の気持ちが「意気地ない」という表現から染み出してきます(「意気地ない」は「育児ない」にも繋がるかと一瞬思いましたが、たぶん気のせい)。
どうして
さて、ここからサビに入ります。少し雰囲気が変わってくるのです。
消えない悲しみも綻びもあなたといればサビに入っても「消えない悲しみも綻び」は続きますが、これまでとはなんだか違って見えます。「それでよかったねと笑える」なんていう現状の肯定が出てくるからです。
それでよかったねと笑えるのがどんなに嬉しいか
目の前の全てがぼやけては溶けてゆくような
奇跡であふれて足りないや
あたしの名前を呼んでくれた
現状を肯定することは向上心の欠如だ、なんて悪く言う人も世の中にはいますが、現状の肯定はぜんぜん悪いことではありません。変えられない現実ならなおさら、向き合って生きていくしかないから。
サビの雰囲気を左右しているのは、ひとえに最後の1行です。
あたしの名前を呼んでくれたこの1行。
私の妄想では「あなた」には重い障害があって、言葉を発するどころか生き延びることも難しい状況とされています。なのに「あなた」は「あたしの名前を呼んでくれた」りするのです。どんな子だって初めて名前を呼んでくれたらうれしいのだし、この子ならきっとなおさらです。
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ほらみんなめっちゃ楽しそう。どんなときだって、コミュニケーションの端緒は奇跡のようなものなのね!
身代わりになりたい
あなたが居場所を失くし彷徨うくらいならばもうだから、ここから主人公の考え方は大きく変わります。主人公は「あなた」を守ろうとするようになります。「誰かが身代わりになれば」なんて表現は大げさですが、それはきっと、主人公がだれかを守るのに慣れていないから。
誰かが身代わりになればなんて思うんだ
今 細やかで確かな見ないふり「あなた」は、なにか目に見える障害を持っているのでしょう。「細やかで確かな見ないふり」とは、障害を前にしたときの周囲の反応のようです。目を背けたり、背けてないふりをしたり。
きっと繰り返しながら笑い合うんだ
何度誓っても何度祈っても惨憺たる夢を見る1番だと「あたしは意気地ない」だったのに、2番では「あたしは不甲斐ない」に変わっています。これは大きな変化です。
小さな歪みがいつかあなたを呑んでなくしてしまうような
あなたが思えば思うより大げさにあたしは不甲斐ないのに
どうして
手元の『新明解国語辞典』では、
ふがいない(系)歯がゆいほど意気地が無い。
と出ています。「あたしは不甲斐ない」という表現には、1番になかった歯がゆい思いがあります。主人公は現状を安易に肯定するのをやめました。そしてもっと覇気や気力を手にしようとしているのです。
ここからは2番のサビ。
お願い いつまでもいつまでも超えられない夜を「超えられない夜を/超えようと手をつなぐ」という意志が見えるこのシーンは私の好きなところです。悩みや苦しみに苛まれる夜そのものを愛おしく思えるようになる、主人公の変化が感じられてひりひりします。
超えようと手をつなぐこの日々が続きますように
閉じた瞼さえ鮮やかに彩るために「そのために何ができるかな」という表現、めっちゃ感慨深いです。だって主人公は現状を肯定的に捉えるために、自分ができることを探し始めたんですから。
そのために何ができるかな
そして、2番の最後のフレーズへと繋がります。
あなたの名前を呼んでいいかなって。
1番では主人公は「石ころにでもなれたならいいな」なんて歌っていました。人とのコミュニケーションなんてあきらめてしまったような価値観だったのです。
それが変わりました。主人公は自分の名前を我が子に呼ばれて、今度は我が子の名前を呼ぼうとしています。これってすごく根源的で、画期的なことだと思うんです。
障害を持った子どもが、母親のことを呼ぶようになったとしたら、それは奇跡みたいなものです。
でもだとしたら、子どものことを呼ぶ気がなかった母親が、我が子のことを呼ぶのだって、奇跡みたいなものだと私は思うのです。
ということで、米津玄師『アイネクライネ』でした。とってもいい曲〜。
米津玄師『サンタマリア』も前に読んだので、あわせてお楽しみください。『アイネクライネ』が母親視点の曲だとしたら、『サンタマリア』は父親視点の曲です。
ところで、モーツァルトに『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』という有名な曲がありますね。
Wikipediaの記事によると、
Nachtmusikは、Nacht(夜)+Musik(音楽)の合成名詞で、「小さな夜の曲」という意味である。日本語では「小夜曲」と訳される。とのことです。今回私はこの曲との関係はいっさい考えませんでした。でもこんなタイトルだったら、無関係とは言い切れないかもしれないですね。詳しい方ぜひ。
追記:米津玄師こちらの曲も読んでいます。よければお楽しみください。
自縄自縛の言葉の果て - 米津玄師『ゴーゴー幽霊船』 - 5日と20日は歌詞と遊ぼう。
↑クリックするとサビ以降も試聴できます。レビューが高評価すぎてすごい!
次回はふぇのたす『すしですし』とか読んでみようと思います。