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5日と20日は歌詞と遊ぼう。

毎月5日と20日に、J-POPやボカロ曲などの歌詞を読んだり、統計したりしています。twitterは@hacosato。

Mr.Children『かぞえうた』

-かぞえるということは、それは、-

こんにちは。今年ももう始まってから100日を超えました。早いー(!)
http://www.mrchildren.jp/disco/download/images/03_kazoeuta_m.jpg
今回はMr.Children『かぞえうた』を取り上げます。配信限定の曲を取り上げるのは、木村カエラ『Butterfly』に続いて2度目です。オフィシャルサイトにもあるように、この曲は復興を支援するためにつくられた歌みたい。

かぞえうた
さぁ なにをかぞえよう

こんな始まりのこの歌詞、かぞえることがどうして復興支援? 読み進めると確かに今回の災害のことを差しているみたいですが、それがどうして「かぞえうた」になるのでしょう? チーム・アミューズ!!『Let's try again』みたいなメッセージソングだったらわかりやすいのに、かぞえる? どうして? ってなりますよね。繰り返しますけど、どうして「かぞえうた」? 今回はそれについて考えてみました。
歌詞はこちら→http://www.uta-net.com/song/110963/
       http://www.mrchildren.jp/news/news20110402.html
構成はこちら→A-A-A-C-A

あるものをあるということ

この歌詞の大きな特徴は、あるものをあるというってことです。すでに手元にあるものを取り上げて、
「ほら、こんなものがあるよ」
って呼ぶところです。
それのなにがそんなにすごいのか、これじゃあ分かりづらいと思います。でもあるものをあるというタイプじゃない曲のことを考えてみたら、特徴がはっきりしてきます。ないものをないという曲を考えてみましょう。森山直太朗『さくら(独唱)』がそういう曲です。

僕らはきっと待ってる 君とまた会える日々を

そんな歌いだしのこの曲は、つまりは君との別れを歌った曲です。君と別れてしまった惜別の思いや再会を期す気持ちを歌に乗せています。君がいなくて、それをいないと歌っているってわけ。
あるものをないと歌う曲もあります。たとえばポケットビスケッツ『Red Angel』の終わりは、

なにも恐く なんかないから

という歌詞です。私はこれを読んだとき、本当は恐いのに、それを「恐くない!」と歌うことによって、強がりを表しているのかな?と考えました。
こんな風に、実際に手にしているものをあると歌う曲もあれば、ないと歌う曲もあると思います。逆に、ここにないものをテーマにして、それがあると歌う(ことによって逆に不在を引き立てる)こともできますし、ないものをないとストレートに表現することもできます。やり方はいろいろです。

実際\歌詞 あり なし
あり Mr.Children『かぞえうた』 ポケットビスケッツ『Red Angel』
なし AKB48『10年桜』 森山直太朗『さくら(独唱)』

このダイアリーで取り上げた曲だけでも、こんな風に表を埋めることができると思います。ないものをあると歌う曲といえば私の中で最初に出てくるのはJUDY AND MARY『あなたは生きている』なんですけど…ご存じないですよね…。
ところで、こんな風にいろんな表現ができる中で、どうしてこの曲はあるものをあるというスタンスを選んだのでしょうか。
この曲はたぶん震災への応援歌です。今回の地震では家も家族も何もかもを失ってしまって、自分の命だけがなんとか残った、そういう思いの方が大勢いらっしゃるかと思います。そういう人たちが、失ったものを想起するのはたやすいことです。親しい隣人がいない。愛すべき飼い犬がいない。大切な写真がない。貴重な文化財がない。食べるものもない。頼るものもない。未来もない。
そういう気分に対して、歌い手はあるものがあるじゃない、と歌います。そしてそれを「かぞえうた」に乗せて歌うのです。
ないものをないと歌う曲、Mr.Childrenならきっと感傷的でセンチメンタルで泣けちゃうようないい曲をつくれるでしょう。でも、実際にないものをないと思って過ごしている人たちにとっては、それは手持ちの感情をなぞるものにしかならないかもしれません。
でも、あるものをあると歌ったら、いまここがスタートラインになります。そして、ないものにとらわれて考えこんでしまいがちな私たちに向けて、かぞえることをそっと提案してくれています。悩みごとにとらわれているとき、
「そんなに考えこむことはないよ!」
って声をかけてもらったことはありませんか? それで解決するような悩みなら、もともとそんなに考えこむことはないんだって。そんな風に内心ツッコミを入れた経験はありませんか?
希望を見失いがちなときに、希望を持とうよ!と言うのはたやすいことです。でもその言葉だけではきっと希望なんて見つけられません。そのための遠回りでとっておきの道を、この曲はさらりと示してくれています。

三人称と一人称の世界

ところで歌詞をさらっと読んで最初に気づくのは、ひらがなばかりのAメロと、漢字交じりになるCメロとの対比です。このCメロ、あらゆる意味でこの曲のスパイスになっているのはもう一目瞭然。表記だけではなく、いろんな要素がほかの部分とは違っています。
Aメロには一人称がありません。感情移入をできるような主役になる人物も出て来なくて、もっと遠いところからの視点で歌詞は紡がれています。すべて平仮名で書いてあることも相まって、まるで絵本のようです。「むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんがいました」的な。
でも、それぞれの連の2行めには「さぁ」とか「ねぇ」とかって言葉が出てきます。これは聞き手に向かって語りかけるような言葉です。絵本にも出てきますよね。「さぁ!どんな服ができるのでしょうか」的な。こんな語りかけがあるから、歌い手(というか「語り手」と言いたい感じ)は、聞き手とすごく近い距離にいるように見えます。見えますけど、表記はあくまでも三人称で、ここにははっきりとした壁があります。先生が自分の立場をわきまえた上で子どもに働きかけるのと、なんだか似ている気がします。
ところが、1連、2連、3連と続いていって、

いつか いっしょにうたいたいな
えがおのうた

ここで突然、この歌詞のルールが崩れていっています。「うたいたいな」に出てくる「たい」って、一人称を主語にしないと使えない助動詞ですよね。ここでいきなり、今まで黒子だったはずの語り手が私たちの前に浮上してくるわけです。いままでずっと桜井さんは絵本の世界を朗読していたのに、急に「うたいたい」なんていう自分の願望をそこに混ぜ込んでしまう感じ。聞いている私たちはここで、あれっ?って思います。このあれっ?がトリガーになって、Cメロへとなだれ込みます!

僕らは思っていた以上
脆くて 小さくて 弱
でも風に揺れる稲穂のよう
柔らかく たくましく 強
そう信じて

Cメロはいきなり、今まで封印してきたはずの一人称「僕ら」から始まります。曲のスケールは絵本の枠をはみ出してしまって、私たちの存在そのものを取り巻きにかかっているみたい!
また、あえて取り上げはしませんが、それぞれの行の終わりの母音を揃えるなど、ライムに関してもこの連だけ工夫が凝らされているのが見えてきます。
こんなふうに、

  Aメロ Cメロ
表記 ひらがな 漢字交じり
人称 三人称 一人称
押韻 控えめ 多め

と、手を替え品を替えいろんな側面から違いをつけることによって、Cメロはこの連で上手にスパイスとして居場所を見つけています。

かぞえるということ

最後に、数えるということについて考えてみます。どうして「かぞえうた」なのでしょう? それがこの歌詞を読んだ時の最初の疑問だったので。
もちろん、最初の章で考えたような理由もあると思います。いろんなものを失ってしまった世界において、あれもある、これもある、と語ることはすごくポジティブです。気持ちを前向きにしてくれますし、それは応援です。でも、それなら「まだ〇〇がある」と単純に歌うだけでもいいはず。数えるのは、どうして?
数えるっていうのはすごく身体的な行為です。ひとつ、ふたつと数えるとき、私たちはそれをつい口にしています。口にできない状況でなら指を折っているでしょうし、指を折っていなければ心の中で唱えています。数えるっていうのは常にそういう動作を連れてくるものだと思います。
悩みごとを抱えているとき、身体を動かすことでいつの間にか悩みから解放されているってことってありますよね。おいしいものを食べたり、友だちに愚痴をこぼしたり、ランニングをしたり。それは、身体的な行為が内面的な悩みを紛らわせてくれるから、っていうふうにざっくり一般化することができると思います。
その身体性を曲の中に取り入れるために「かぞえうた」になったのかな?というのが私の考えです。数えると身体を動かしますよね。身体を動かすと、悩みから少し遠ざかります。それができたら、この曲はきちんと“応援歌”ですよね。
ところでCメロ

僕らは思っていた以上に
脆くて 小さくて 弱い
でも風に揺れる稲穂のように
柔らかく たくましく 強い
そう信じて

Cメロは「信じて」で終わっています。Aメロは身体的な表現が特徴でしたが、Cメロにはこのように、内面に踏み込んだ表現が出てきています。
Aメロは先ほども触れたように、まるで絵本の世界を桜井さんが読み聞かせをしているようなイメージでした。絵本の中の世界は桜井さんの意図は直接的には届かないっていう設定になりますから、そこで遠まわしに、自分の意図を伝えることができますよね。
でもCメロは違います。桜井さんが直接に私たちに語りかけるような体裁をとっています。この中では、Aメロで封印してきた内面的な表現が遠慮なく使われています。「思っていた」「信じて」もそうですし、Aメロではなかったたとえ話にも言及しています。手に取れないものを積極的に歌い上げていますね。
桜井さんは今回の災害では、少なくとも直接的には大きな被害を受けていないみたいです。ですから、被災した人“へ向かって”応援歌を歌っています。その距離感では、安易な同情は反感を買うだけです。それに本当の苦労はどうせ分からないことでしょう。桜井さんはたぶんそれを意識しています。だから絵本のような別の世界を借りて、その中で「かぞえうた」を歌うのでしょう。
でも本当に思うところはやっぱりちゃんと別にあります。それを託したのがCメロってことになるのかな、と私は思いました。AメロCメロを比較したさっきの表には、付け加えないといけないことができましたね。

  Aメロ Cメロ
表記 ひらがな 漢字交じり
人称 三人称 一人称
押韻 控えめ 多め
表現 身体的 内面的
世界の立場 設定された世界 歌い手の内面からの世界

こんなふうに、ね。

つながリンク

前回は森山直太朗『さくら(独唱)』を取り上げました。今回のMr.Children『かぞえうた』との共通点は、笑顔。
さくら(独唱)』では、

どんなに苦しい時も 君は笑っているから

という表現を受けて、

泣くな 友よ 今惜別の時 飾らないあの笑顔で さあ

と「笑顔」が出てきます。私はこれを、写真の中のことだと受けとめました。写真の中の君の笑顔を、「あの笑顔」と読んでいるのかな?と思ったわけです。
一方で「かぞえうた」を見てみましょう。

わらえるかい
きっと わらえるよ
べつにむりなんかしなくても
ひとりふたり
もうひとりと つられて
いつか いっしょにうたいたいな
えがおのうた

今回はここまで全く触れなかった3番のAメロからの引用です。連の最後に「えがお」が出てきています。この連の冒頭の「わらえるかい」は問いかけですから、ここでは「笑う」ことの主語は二人称(「あなた」)なんだろうなと思います。でも、「えがおのうた」っていったらもっと抽象的。だれの笑顔ということはなくて、きっとこの歌を取り巻くあらゆる人の笑顔を指しているんでしょう。
「笑顔」っていう言葉は、本来ならそんなに難しいことのない名詞です。なのですが、この2曲はなぜか共通して、笑顔をもっと抽象的な意味でとらえています。今この場所にない笑顔だったり、だれのものだと言い切れない笑顔だったり。それはどうして? 今度また歌詞に笑顔が出てきたときのために、このことは忘れないようにしときたいなと思いました☆



さて、今週のお題は「心に残った本」なんですね。私も便乗しようと思います。
私が歌詞を読むようになったきっかけは実はいくつかあるんですが、本っていう側面で一番大きかったのは、烏賀陽弘道『Jポップの心象風景』に出会ったことです。私のダイアリーでも取り上げたことがあるヒトでいうと、ユーミンとかスピッツとかといったアーティストごとに章を立てて、そのアーティスト像を民俗学社会学、心理学なんかを使って掘り下げていく内容です。そして、最終的には日本人の心象風景に迫ります。
いまの私のやり方とは、似ているようで実はけっこう違います。私は知識によるバックボーンはないし、歌い手単位で曲を見たりしません(それも、統一した像を結べるだけの知識が私に欠けているからなんですが)。それでももちろん酷似しているところはあるし、影響を受けているところもたぶんにあると思っています。そういう意味において、私の人生を狂わせた一冊といえましょう(ぇ)。
でも、読んだ直後のことは実はそんなに印象深くなかったんですよねぇ。この読書体験が歌詞を読む行動へ移行するためにはさらにいくつかのステップがあるんですが、その話はまた、いずれ機会があれば。
かぞえうた

かぞえうた

Jポップの心象風景 (文春新書)

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