5日と20日は歌詞と遊ぼう。

歌詞を読み、統計したりしています。

エクソダス - UNISON SQUARE GARDEN『シュガーソングとビターステップ』

お断りしておきますが、いまからわたしが言うことは口から出任せです。

超天変地異みたいな狂騒にも慣れて こんな日常を平和と見間違う
rambling coaster揺さぶられながら 見失えないものは何だ?

UNISON SQUARE GARDEN『シュガーソングとビターステップ』歌詞(歌ネットへリンク)

エクソダス

西暦20xx年、このエリアはママレード=ピーナッツ二重帝国が版図としていました。首府から海岸線に沿って東北方向に広い領地があって、主人公たちはそこに住んでいました。
そんな中、当の東北地方で大規模な地震が起きたのでした。
被害は甚大なものでした。地震による直接的な被害だけではありません。最も大きな懸念要因は、細菌研究所の存在でした。地震によって建屋が完全に破壊されてしまい、研究所に厳重に保管されていた生物兵器が流出したという噂が広がったのでした。
震災後の混乱の中で、情報は一人歩き。東北地方から脱出しようとする難民たちの群れが、首都圏に押し寄せました。この現象はエクソダスと呼ばれました。

超天変地異みたいな狂騒にも慣れて こんな日常を平和と見間違う
rambling coaster揺さぶられながら 見失えないものは何だ?
まだ余震は続きます。噂が噂を呼ぶ、狂騒も広がっていきます。
度重なる余震に少しずつ慣れるように、人々は狂騒にも慣れていきました。異邦人が井戸に毒を流している、沿岸の工場が破壊されて人を殺す有害な雨が降る、どんどん過激になる流言にも、感覚が麻痺していって、そんな毎日をだんだん平和と思えるようにもなってきました。

地震発生から数日。配給のシステムが少しずつ整ってきて、飢餓で命を落とすような危険はだんだん遠ざかってきました。生きるか死ぬかの段階を抜けると、今度はまた別のことが俎上に上がってきます。

平等性原理主義の概念に飲まれて 心までがまるでエトセトラ
大嫌い 大好き ちゃんと喋らなきゃ 人形とさして変わらないし
配給は貴賎を問わず平等です。主人公たちだって例外ではなく「平等性原理主義の概念」にもとづいて平等な配給を受けます。
心の中にはもちろんそれぞれ違う思いを持っています。でもそれはエトセトラとして受け取られて、勘案されることはありません。本当は「大嫌い」も「大好き」もあるのに。

宵街を行く人だかりは 嬉しそうだったり 寂しそうだったり
コントラストが五線譜を飛び回り 歌とリズムになる
宵街を人が歩けるのは、電気が復旧したからです。「嬉しそう」なのは復旧したからだし、「寂しそう」なのはまだまったく震災の傷跡が癒えないからです。このふたつは対になっています。
ここにはもうひとつ「歌」と「リズム」という対があります。2つの対があって、それがこのあとの部分への伏線になっています。

ママレード&シュガーソング、ピーナッツ&ビターステップ
甘くて苦くて目が回りそうです
「シュガーソング」と「ビターステップ」という言葉は対照的です。
「シュガー」と「ビター」は「甘くて苦くて」と対応しています。
「ソング」と「ステップ」はひとつ前のBメロの「歌」と「リズム」に呼応しています。
つまり震災後のこの世界において、ふたつの相異なる現状の認識があって、両者は対立関係にあると主人公たちは認識しているのです。

これまでこの帝国の国民たちは、戦争状態になると団結してきたし、一般論では今回もそうなるでしょうが、この震災においては対応が後手に回り、国民感情も一体にならなかったのです。

南南西を目指してパーティを続けよう 世界中を驚かせてしまう夜になる
I feel 上々 連鎖になってリフレクト
主人公たちは帝国の首都を目指しています。東北地方から見て、南南西が目指すべき方向です。
街道が地震で破壊されてしまったら、道路を記した地図は役に立たないかもしれません。でも方角は嘘をつかないのです。南南西に進路を取れば、間違いがありません。
主人公たちの“エクソダス”は、まるでパーティです。ある見方をすればそれは不謹慎だし、別のある見方をすればそれは無責任な逃亡です。
でも、主人公はそれを「パーティ」と呼びます。混乱の下で、新天地を目指して気の知れた仲間だけで進んでいて、そこに高ぶった気持ちを感じるところに嘘はありません。

蓋然性合理主義の正論に揉まれて 僕らの音楽は道具に成り下がる?
こっちを向いてよ 背を向けないでよ それは正論にならないけど
そのお供になっているのは音楽です。主人公たちは慣れ親しんだ弦楽器を持ちだして、それをかき鳴らしながら陽気に道を進みます。
一般に音楽はプロパガンダに使われたりもします。この震災のときもそうで、みんなでひとつになろう、という曲も流布したし、生物兵器への反感を歌った曲も使われました。
一方で主人公たちは「僕らの音楽は道具に成り下がる?」と歌います。音楽がプロパガンダとして扱われるのが気に入らないのです。
だって、音楽は、もっとシンプルに、高ぶったり沈んだりする感情を描くだけでいいじゃないか、と。

祭囃子のその後で 昂ったままの人 泣き出してしまう人
多分同じだろう でも言葉にしようものなら稚拙が極まれり
要するにそれは、言葉にするなら「人それぞれ」とでも言えるでしょう。
でも、そんな手垢まみれのフレーズは主人公たちには似合いません。だからそこから先までを歌にしてしまったりはしません。
それは、この旅の終わりが言葉にならないことと、ちょうどいっしょです。



って感じで、ここまで全部妄想でした。
でもさ、これでも辻褄あうとおもいませんか!?!?!?
わたしいつもこういうことやってて大変楽しいので、ぜひみんなにもやってもらいたいし、みんなの妄想を言葉にしていただきたいと思っています。
これからもよろしくお願いします!