5日と20日は歌詞と遊ぼう。

歌詞を読み、統計したりしています。

フジファブリック『若者のすべて』

-迷いながらも一直線の道-
たいへん! 夏が終わっちゃう。
若者のすべて
真夏のピークも去りそうなので、

真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた
それでもいまだに街は 落ち着かないような 気がしている

こんな歌い出しのフジファブリック若者のすべて』を取り上げます。BankBandが『沿志奏逢3』でカバーしたので、この曲を選びました。1ヶ月前に私が取り上げたRADWIMPS『有心論』も『沿志奏逢3』でカバーされています。

歌詞はこちら→http://www.uta-net.com/user/phplib/view_0.php?ID=57940
構成はこちら→A-B-サビ-サビ-A-B-サビ-サビ-C-サビ-サビ-サビ

あきらめてるのにあきらめきれない

この曲の前半には“終わり”をにおわせるフレーズがいっぱいです。

真夏のピークが去った

なんていう最初の最初もまさにそれ。次の連にも

夕方5時のチャイム

が出てきますし、さらに次の連には

最後の花火に今年もなったな

ってフレーズが出てきます。どれも晩夏らしさ濃厚に漂わせながら、ちょっとさびしい感じの“終わり”の感があります。
夕方のチャイムなんてとりわけぐっと来ます。夏休みって学校がなくて、時間に明確な区切りってなかなか付けにくいものなんですよね(だからなんとなくだらだらと過ごしがちになって、宿題も後回しにしがちなわけです)。
そんな夏休みの間の生活のなかで、夕方のチャイムっていうのは時間に区切りを付ける貴重な存在です。だからなかんずく“夏の”夕方のチャイムは記憶に残ったりするんでしょう。
この曲の主人公は、花火を見ながら

何年経っても思い出してしまうな

なんてことを歌っているし、きっと小学生じゃないと思います。だとしたら、「夕方5時のチャイム」がとりわけ胸に響くのも分かる気がします。
だって大人になれば、夕方の時間に地元にいること自体がだんだん減ってくるから。
ただそれも夏休みとかなら別。長さは違えど大人にだって夏のお休みはあって、なのに子どものときと同じようにちょっと持て余し気味。そんな夏休みの夕暮れ、チャイムの音が聞こえて、子どものころの気持ちを思い出してしまうのです。この曲はそういうシチュエーションです。
…と、“終わり”を堪能してきましたが、これって曲全体の中でどういう意味がある“終わり”なの?という疑問がわきます。 それはまたあとで戻ってくることにしましょう。

迷いながらも一直線の道

そんな“終わり”を抜けると、今度は“迷い”が繰り返し出てきます。

ないかな ないよな きっとね いないよな
会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ

サビの後半。この曲で一番耳に残るメロディと歌詞の部分です。
「ないかな ないよな」は、「いないかな いないよな」の意味だと最初に思いました。直後に、「きっとね いないよな」とわざわざ書いてくれていますから。同じようなカタチの言葉がすぐ近くにあったら、同じような意味を表すことが多いと思うのです(Chara『TROPHY』のときにこの考えを使いました)。
で、いるかいないかわからない存在に対して、「会ったら言えるかな」と続けています。いるかいないか、というより、会えるか会えないかがわからない、といったほうが正確なんでしょう。こうして少しずつ核心に近づけてくこの部分、かっこいいです。そんな、会えるか会えないかわからない存在のことを、「まぶた閉じて浮かべている」のがこのサビの部分です。
この、会えるか会えないかわからない存在って、いったいなんでしょう?
直前に「最後の花火」が出てきます。
私は、花火大会に行けば、もしかしたらあの人に会えるかもしれないと望みを託している主人公が目に浮かびました。
「きっとね いないよな」なんて自分に吹き込んでおきながら、「会ったら言えるかな」と、会ったときのことも考えてしまっている主人公は、サビの部分で迷ってしまっているみたい。
2番のAメロは、

世界の約束を知って それなりになって また戻って

という歌詞です。それなりになってまた戻るなんて。行ったり来たりしているんですね。この行ったり来たりが、さっきサビで見えた主人公の迷いとシンクロしているように見えます。
揺れています。でも目的地は、はっきりしているのです。

街灯の明かりがまた 一つ点いて 帰りを急ぐよ
途切れた夢の続きをとり戻したくなって

主人公の足取りは、急かされながら前へと進んでいっています。行き先は「会う」ほうです。さっきの私の妄想にのっとるなら、花火大会の会場へと足を向けています。会えるかどうかなんてわからない、と自分に吹き込んでいます。でも、会えるかどうか、たぶん主人公は勘づいているんだと思います。
会えたの? 会えなかったの? 主人公はその問いに、ストレートな表現で応えたりしません。無粋だし。でも、最後のサビを見れば私たちにはわかります。

ないかな ないよな なんてね 思ってた
まいったな まいったな 話すことに迷うな

わたしたちは気づくのです。会えたんだ。だって、話すことに迷ってるし。
さんざんあっちに行ったりこっちに行ったりしておいて、やっぱり出会えたんだ。

夏の終わり、花火、同じ空

主人公は最後の花火の下で、ついに「君」に出会うことができました。
ここで、もう一度 前半を振り返ってみましょう。

真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた
それでもいまだに街は 落ち着かないような 気がしている

すでに引用した最初の最初です。さっきは1行めばかりに注目していた私ですが、ここでは2行めをよく見てみます。

それでもいまだに街は 落ち着かないような 気がしている

本来なら、夏が終わったら街は落ち着くはず。そういう認識があるからこそ、ここで「それでも」という接続詞が使われているんですよね。

最後の花火に今年もなったな
何年経っても思い出してしまうな

この2行めはどうでしょう? 「何年経っても思い出してしまう」のはどうして?
どうも、“終わり”をにおわすのにそわそわと落ち着かない主人公なのです。どうしてなんでしょう?
それは2つめのサビが手がかりになりそう。

ないかな ないよな きっとね いないよな
会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ

という主人公の逡巡。会えるかどうかわからないから、どうにも落ち着かないわけなのですね。つまり、主人公はちゃんと会わないと、きれいに“終わり”を迎えられない淵に立っているみたいです。
最後のサビはこんな感じ。

最後の最後の花火が終わったら
僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ

「僕らは変わるかな」のところ、前のサビでは「会ったら言えるかな」だったんでしたよね。そしてこの「会ったら」という仮定は現実のものになりました。
だとすれば、同じメロディが呼応する「花火が終わったら」の仮定だって現実になるんじゃ? 花火は終わってしまうし、そうしたら僕らは変わるのです。
夏の“終わり”は、古い僕の”終わり”でもあるのです。

まとめ

前回はカミナリグモ『ローカル線』を取り上げたんでした。今回の曲との共通点は、「明かり」。

にじんで揺れる 車窓の明かり まばらな乗客は
誰も彼も くたびれて 何を想うのだろう
今日の出来事 明日のこと 帰りを待つ人のこと
僕はずっと 夢を見てる 瞬きも忘れて

2番のAメロに「明かり」は出てきます。この部分では私は、前半と後半の対比に注目したんでした。前半3行は、ローカル線のある世界を日常生活に取り込んでいる乗客の描写。最後の1行はローカル線をアトラクションとして捉えている僕の視点で描かれています。
「明かり」は前半のほうにありますね。だから明かりは、正気さの象徴です。この明かりはきっと、電車の車内の蛍光灯なんでしょう。窓ガラスに反射して、疲れた乗客の顔を青白く照らすのです。
一方『若者のすべて』では、

街灯の明かりがまた 一つ点いて 帰りを急ぐよ
途切れた夢の続きをとり戻したくなって

という部分に「明かり」が出てきます。ここでは、明かりに急かされて帰りを急ぐと、夢の続きが取り戻せそうになる、という文脈で明かりは描かれています。つまり、明かりは、夢の世界へと誘う道しるべみたい。「途切れた夢」とはなんでしょう? ここではたぶん、古い僕を終わらせるプロセスのことを指すのでしょうね。
同じ「明かり」という言葉が、正気さを表したり、夢の世界の道しるべになったりするみたい。でもなるほど、どちらでもちゃんと合点がいくなあ。すごいなあ。
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2018/08/17加筆修正しました。