スピッツって境界を描くことがとても多いとわたしは考えています。
今回の『みなと』も同じ。
「港」の語源は「水の門(戸)」と言われていて*1、水と陸の境界が「港」になるわけなのですよね。
船に乗るわけじゃなく だけど僕は港にいる
知らない人だらけの隙間で 立ち止まる
遠くに旅立った君に 届けたい言葉集めて
縫い合わせてできた歌ひとつ 携えて
この曲には「僕」と「君」が出てきます。「僕」は港にいて、「君」は「遠くに旅立った」と歌われます。
ふたりの間には境界があって、それが「港」と呼ばれるわけなのです。
今回はそんな「僕」と境界の話。
境界を目指して
船に乗るわけじゃなく だけど僕は港にいる
知らない人だらけの隙間で 立ち止まる
遠くに旅立った君に 届けたい言葉集めて
縫い合わせてできた歌ひとつ 携えて
いきなり身もふたもない共感で恐縮なのですが、主人公がこうやって「港」にいる気持ち、とてもよくわかるのです。
港は陸の世界と水の世界の境界線。
「僕」は陸の世界で暮らしていて、「君」は「遠くに旅立った」のだから海の世界で暮らしています。
「僕」は「君」に届けたい言葉を集めたりなんかして、再会を望む気持ちをメロディに乗せて歌います。
だけど「船に乗るわけじゃなく」なのです。
主人公は「君」に会いたいと言うのに、それなのに、船に乗って会いに行ったりなんかしません。
理由は簡単です。
世の中、そんな簡単に勇気出たりなんかしないんだよな。
汚れてる野良猫にも いつしか優しくなるユニバース
黄昏にあの日二人で 眺めた謎の光思い出す
主人公は勇気のいらないことばかりを歌います。
野良猫を見つめたり、むかしの不思議なエピソードを思い返したりします。
港町には、そういうのが似合うからです。
君ともう一度会うために作った歌さ
今日も歌う 錆びた港で
そんなところにいて「君ともう一度会う」などという夢が叶うはずはありません。
なぜなら「君」は船に乗って遠くに旅立って行ったから。
だけど「君ともう一度会うために作った歌さ」というフレーズに、まちがいはひとつもありません。
「君ともう一度会う」ために、主人公の側に、取り戻さないといけないことがあるかもしれないからです。
主人公は港町で、猫を見つめたり、むかしを思い出したりして、たどり着くべき場所へ向かってもがいています。
勇気が出ない時もあり そして僕は港にいる
消えそうな綿雲の意味を 考える
遠くに旅立った君の 証拠も徐々にぼやけ始めて
目を閉じてゼロから百まで やり直す
基本的に勇気が出るときなんて人生ではほとんどありません。
綿雲の意味なんて考えてもわかりません。
「君」と別れて、ひとりで港町でぼんやり自分を回復する日々が長くなっていくと、それより前の記憶は薄れていくのは道理です。
だめだなと思って目を閉じてやり直そうとしたって、たいていのだめなことはだめなままです。
すれ違う微笑たち 己もああなれると信じてた
朝焼けがちゃちな二人を染めてた あくびして走り出す
君ともう一度会うための大事な歌さ
今日も歌う 一人港で
だけどそれでもそういう場所を経てじたばたしないといけないことがときどき人生にはあって、それが主人公のいま置かれている場所なのだとわたしは思います。
「僕」は走り出したところで絶対に「君」のもとにたどり着くことはありません。
だけど走り出すことで、「君」のもとにたどり着きうる自分に変わる可能性はあるんですよね。
この曲はそういう、やさしい回復を歌ったものなのだと、わたしは考えています。
はじめの話に立ち返ると、主人公は境界を越えないといけないのに、越えることができていないだけでなく、越えようとすらしていません。
だけど、だからといってそれがよくないことなのだとは思いません。
主人公が境界の場所に来るまでの間に、きっともっと長い道のりを歩んできただろうからです。
境界の場所までたどり着いたなら、その先まではきっと、ほんの少しです。
ところでこの間、おしゃれなお店に行って、友だち(!)と何時間もおしゃべりしてきたところなのです。
これはそのときのしずく型のかわいいグラス。
みなとにいた友だちは、紅葉のきれいな街にいまごろいるはずなんだよな。元気でやってるといいな。