こんにちは!
きょうは星野源『Family Song』の歌詞の話をしたくて来ました!
ただ 幸せがこういう歌詞、いままでのJ-POPの家族観とはちょっと違って見えると思うんですよ!
一日でも多く
側にありますように
悲しみは
次のあなたへの
橋になりますように
きょうはそんなことをおしゃべりするだけの回です。
新しい家族観
目が覚めて涎を拭いたらAメロにはすでに、家族を表象するようなちいさなモチーフがたくさん仕込んであります。
窓辺に光が微笑んでた
空の青 踊る緑の葉
畳んだタオルの痕
「目が覚め」るのはいっしょに朝を迎えるから。
「涎」が出てくるのはスキを見せられるから。
そして「タオル」を共有するのはそれが家族の証だから、です。
この切り口は見たことないし、ナットクだし、新しくてとってもいいです。作詞家いしわたり淳治さんの言葉でいうと「現場の意見」がある、上手な歌詞だと思います。
でも、この部分はわたしが思う「新しい家族観」が見える部分ではありません。
切り口は新しいけれど、その断面から見せようとしているものはいままでの安心できる家族のうたと変わりません。
変わらなくたってぜんぜんいいし、むしろわたしはそういう曲すごく好きなんですが、でも今回わたしが注目したのはこの部分じゃないのです。
サビです。サビ見て!!
ただ 幸せが「側にありますように」「橋になりますように」って部分。
一日でも多く
側にありますように
悲しみは
次のあなたへの
橋になりますように
遠い場所も繋がっているよ
日本語では動詞の部分が文全体を支えるから、この部分がサビの核になる部分です。
その終わりが「ように」になっているのがこの曲のおもしろいところです。
『Family Song』の核になる部分は「願い」でできているのです。
「ように」については1冊のまるまる語ってる本があってめっちゃおもしろいのでぜひ読んでほしいのですが、とりま今回言いたいのははそこではないです。「ように」と似たことばで「ために」があります。
「ように」は結果としてそういう事態が生じることを目指して、あるいは願いながら、さまざまな行動をしたということを表しています(p.45)。「ように」は結果。
「ために」は、そういう事態が生じることを意図して、積極的にさまざまな行為をしたということを表しています。「ために」は目的です。
ように | ために |
---|---|
結果 | 目的 |
よく似ているけど、両者はちがいます。『Family Song』は結果として幸せが一日でも多く側にあったらいいな、というふんわりとした願いでできています。
幸せを勝ち取ろうとするような積極的な意志があるわけではないのです。
これが、わたしが思うこの曲の新しいところです。
たとえば、『家族になろうよ』と比べて
hacosato.hatenablog.com
福山雅治『家族になろうよ』という曲があります。とても気になった曲だったので前に字数を割いて文章を書いたことがあるよ。
この曲と、今回の『Family Song』とは結構な違いがあります。
簡単に言うと、『Family Song』は願いで、『家族になろうよ』は意志で、それぞれ成り立っている感じがします。
いつかお父さんみたいに大きな背中でサビはタイトル通り「家族になろうよ」ということばで終わります。「なろう」というのは結構強い意志が感じられることばです。
いつかお母さんみたいに静かな優しさで
どんなことも越えてゆける
家族になろうよ
結婚とつよい結びつきのある歌詞でしょうから、ここにはきっとすごく重い決心があります。
強い意志には、同時に邪魔者を排除しようとする力がはたらくように思います。「家族になろうよ」ということばの中に、家族の輪を乱すような行動を戒める力は必ずはたらきます。
それが国家なら窮屈だけど、家族ぐらいの規模ならそれほど重々しくは響きません。「家族になろうよ」と誓うシーンでは登場人物はたったふたりで、困ったことはふたりで乗り越えていけばいいし、メンバーが増えたらそのときには丁寧に意見をぶつけ合えばいいからです。
でも『Family Song』ではそのわずかな重みすら忌んだように見えます。
それがはっきり見えるのが2番のAメロです。
出会いに意味などないけれど「出会いに意味などない」と歌うし「血の色 形も違う」と歌うこの歌詞は、運命とか絆とかからとても自由です。
血の色 形も違うけれど
それに、それぞれの違いをはっきりと認めています。
「いつかお父さんみたいに大きな背中で/いつかお母さんみたいに静かな優しさで」と、両親のかげを自分たちに映す『家族になろうよ』とは違って、『Family Song』はお互いの個性ができる遊びを許容してくれるのです。
さらに『Family Song』はこのように続きます。
いつまでも側にいることが「いつまでも側にいよう」とはぜったいに言わないのです。「できたらいいだろうな」と、あくまでもそこにはふんわりとした願いの網みたいなものがあります。
できたらいいだろうな
そこにくるまってゆるくつながるのが、きっといまの「Family」のかたちなのでしょうね。
というわけで、星野源『Family Song』でした。
ところで。
女子中高生の消費行動はよく見えるけど、男子の中高生ってどんなものが好きで、どんなことを考えてるのかよくわかんない、って話、わたしの周りでときどき聞きます。具体的にいうと伊予柑さんが言っていました。
で、わたしは男子の中学生の知り合いってあんまりいないんですが、その数少ないサンプルによると、なんだか知らないけどみんな星野源がすごく好きだったのでした。
今回の『Family Song』でもそうですけど、『恋』とかでも、星野源さんの歌詞は観点が新しいとわたしは思っています。
だって、よく考えてくださいよ! 『恋』ってタイトルでふつうこんな歌詞にならないと思います。
夫婦を超えてゆけ一人を超えてゆく「恋」って何だよ。
二人を超えてゆけ
一人を超えてゆけ
未来を担っていく中学生たちにとって、恋や家族に対するいままでの価値観の曲ってどこか退屈で、そういうもやもやしたところを星野源さんがかっさらっていっているのかなぁ、って少しだけ思っています。わかんないですけど。
たとえばYouTuberさんとか、ファッショニスタのみなさんとかの中から、もっと若い人がそういう価値観を引っ張ってくれたりするかなぁ?
わたしは早くそういう世界が見てみたいと思っています。
街頭のメロディに
祈り乗せて届けてくれないか
くれないかなぁ。
おしまい。