5日と20日は歌詞と遊ぼう。

歌詞を読み、統計したりしています。

サカナクション『アルクアラウンド』

研究をアルク、天球をアラウンド
こんにちは。
アルクアラウンド(初回限定盤)
今回は、ルリさんのリクにお応えしまして『アルクアラウンド』を取り上げたいと思います。難しかったです…。

嘆いて 嘆いて 僕らは今うねりの中を歩き回る
疲れを忘れて
この地で この地で 終わらせる意味を探し求め
また歩き始める

「アラウンド」なんていう英語をタイトルに使っていながら、歌詞の中にはカタカナひとつありません。見るだけでメロディが匂い立つような歌詞が魅力的です。
歌詞にはタイトルと関連して「歩き回る」「歩き始める」といったような、歩くことに関連する複合動詞がたくさん出てきます。歩くことをいろんな側面から切り出すような歌詞になっていますが、その一つ一つに拘泥していたら身動きが取れなくなっていました私…。「歩き回る」って書いてあるのに「この地」ってなんなの! 「この地」って歩き始めた場所のこと? それとも行き先のこと? みたいな。一事が万事こんな感じでした。ぉぃぉぃ。
最終的にはそれでも割とスムースな読みができたつもりでいますので、お楽しみください。
歌詞はこちら→http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND87470/index.html
構成はこちら→ABサビ-ABサビサビ

この曲のPV大好きです!

和が匂い立つような歌詞

この歌詞、まあとにかく和風の匂いを感じます。特に前半。

僕は歩く つれづれな日
新しい夜 僕は待っていた
僕は歩く ひとり見上げた月は悲しみです
僕は歩く ひとり淋しい人になりにけり
僕は歩く ひとり冷えた手の平を見たのです
僕は歩く 新しい夜を待っていた

というわけで、曲の前半の歌詞を引用しました。たとえば「つれづれ」。私がこの単語を最初に知ったのは、中学の国語の授業でのことでした。もちろん徒然草です。Wikipediaによると、


徒然草』(つれづれぐさ)は、卜部兼好兼好法師、兼好。吉田兼好は江戸期の俗称)が書いたとされる随筆。清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』と合わせて日本三大随筆の一つと評価されている。
ということになっていて、日本の古典の傑作の一つです。現代の国語辞典にも「つれづれ」は載っているので、これは古語ではないとは思いますが、でも現代で使っている人って見たことないです、ブログ以外では(笑)。

「僕は歩く ひとり淋しい人になりにけり」も狙ってやっているのだと思います。「なりにけり」の部分は完全に文語です。意味はたぶん「なってしまったよなぁ…」的な感じだと思うのですが、割と自信なしなのでスルーしてほしいです。
そんなことより、ここに文語を持ち出してあることにはとても注目だと思います。「なりにけり」といえば中村草田男の俳句「降る雪や明治は遠くなりにけり」が連想されますよね!(解説はこちら)連想されるのがこの俳句でなかったとしても、ここにいきなり出てくる文語の表現に、レトロな印象をぬぐい去ることはできないと思うのです。
それからさらに「ひとり冷えた手の平を見たのです」。ココ。私がこれを見て連想したのは、やっぱり石川啄木です。「はたらけど はたらけど猶 わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る」という短歌がありますが、手を見る仕草が共通していますね。私は『アルクアラウンド』のこの部分の歌詞が、石川啄木から来ているのではないかと勝手に推測しているというわけです。
そんなわけで、ひとつは鎌倉時代、ひとつは昭和、ひとつは明治ですが、どちらも日本の著名な文学を連想させるような単語の選び方だと私は思いました。浅学な私ですので、きっと私が注目していない部分にもなにかしらの文学的なバックボーンがあるのではないかと容易に推測できます。詳しい方の突っ込みに期待したいですね←

イメージが匂い立たない世界観

と、かなり明白に見える言葉の選び方とは対照的に、歌詞全体の世界はなかなかはっきりとは見えてきません。たとえば、冒頭の疑問に立ち返ってみましょうか。
この曲は「歩く」ことを重要なテーマとして主軸に据えています。歩くことは移動することです。そして移動するからには出発点と到達点があります。この曲が大事にしているのは、出発点でしょうか? 到達点でしょうか? それともその移動のプロセスでしょうか?
どうしてこんなことが気になるのかというと、サビでこんなフレーズが繰り返されるからです。

この地で この地で 終わらせる意味を探し求め
また歩き始める

この地で この地で 今始まる意味を探し求め
また歩き始める

「この地」ってどこだよ! 出発点? 到達点? それとも移動中? 「この地」という言葉はサビでかなり頻繁に繰り返されているので、なにか重要なポイントであることは間違いなさそうなのに、その手がかりがなかなか見いだせません。


カミナリグモ『ローカル線』を読んだときに、移動のことについて考えてみています。よければご参考まで。
それから、別の部分を引用しましょう。

覚えたてのこの道 夜の明かり しらしらと
何を探し回るのか にもまだわからぬまま
嘆いて 嘆いて 僕らは今うねりの中を歩き回る
疲れを忘れて

1番のBメロからサビにかけてを引用しました。ここを読んで、私はとても混乱しました。
さっきまで一人称は「僕」だったのに、急に「僕ら」になってる! 「君」っていつからいたんだよ! お前だれだよ!!

  *  *  

…ってな感じで、いろいろ問題点が噴出していたのですが、曲がりなりにもひとつの枠組みに落とし込んでみました。
「僕」は前近代の天文学者、「君」は惑星だとしたらどうでしょうか?
理科の時間に習うと思いますが、普通の恒星は地上からでは北極星を中心にして半時計回りに回るように見えます。一方で、金星や木星といった惑星はそのルール通りには動かず、天球をふらふらとあっちへ行ったりこっちへ行ったりするように見えます。「惑星」という言葉は、この特徴を語源にしています(Wikipedia先生より)。
ということを踏まえて、前近代の天文学者たる「僕」は、惑星の動きを予測できるようになりたいと考えています。その研究の歩みが「歩く」と表現されているとして、改めて『アルクアラウンド』の歌詞に立ち返ってみます。

僕は歩く つれづれな日
新しい夜 僕は待っていた

この歌詞の冒頭を引用しました。「つれづれな日」とは日中のこと。日中は観測ができないので歩いて(=研究して)います。「新しい夜」を待っているのはなぜかというと、夜になれば観測ができるからです。新しい観測結果が得られればそこから新しい知見が得られるかもしれないので、「僕」はそれに期待しているのです。
ってなノリで読んでいくと、大体の部分はけっこう整合性が出てくるような感じがします♪

嘆いて 嘆いて 僕らは今うねりの中を歩き回る
疲れを忘れて

急に「僕ら」が出てきたシーンです。ここもさっきのストーリーにのっとって考えれば大丈夫そう。「僕」は惑星である「君」を自分自身と重ねあわせて見ています。惑星が天球をふらふらと動き回るように、「僕」の仮説も行ったり来たりを繰り返しているのでしょう。それは「うねり」です。でもそれにくじけることなく、疲れを忘れて研究に打ち込む姿がイメージできますね。
私がさんざん引っかかっていた「この地」も、想像しやすくなりました。「この地」とは、天球上で惑星がある場所のことではないかと思ったのです。「この地」で1日を終える意味は? 「この地」で1日を始める意味は? それが分かって予測できるようになれば、その軌跡が描けるようになるはずなのです。

この地で この地で 今始まる意味を探し求め
また歩き始める

そしてそれは、「君」にとっての「この地」であるのと同時に、「僕」にとっての「この地」でもあります。惑星が存在している場所は、「僕」にとっては研究の最前線です。惑星が翌日1歩進めば、それだけ「僕」の研究も1歩進みます。そこから新しく立ち上ってくる意味を探し求め、惑星の歩みとともに「僕」の研究も歩んでいけそう。
「君」と「僕」は、表裏一体だったのですね。



というわけで、サカナクションアルクアラウンド』でした。
ところで昔の天文学者といったらいま『天地明察』の映画やってますね。でも私は『天地明察』、観てもいませんし読んでもいなかったのでした。これ知ってたら『アルクアラウンド』の歌詞ももう少しスムーズに読めた気がしますが…まあいいか。
でも今回は図らずも(若干)タイムリーな感じになったので、とてもよかったです。あわよくば毎回これぐらいのタイムリーさは狙っていきたいのですが、私にはなかなか難しいです…。
次回は未定です! みやさんからレスいただいて、かつうまく読めればゆず行きたいです!
最近おくれ気味ですみません…>< 今後ともよろしくお願いします。
アルクアラウンド

アルクアラウンド

YoutubeよりもiTunesのほうが聴いてて耳がわくわくしませんか…? 私だけかな…。