5日と20日は歌詞と遊ぼう。

毎月5日と20日に、J-POPやボカロ曲などの歌詞を読んだり、統計したりしています。twitterは@hacosato。

中島みゆき『荒野より』

ポジティブな仮面をかぶった、本当のネガティブ
こんにちは。
荒野より
今回は予告通り、中島みゆき『荒野より』を読んでみようと思います。
ところで、つのはず誠さんは「キラ歌発掘隊」で、この曲について以下のように述べています。

歌詞を見れば「君がこの星に居てくれること」と星レベルで相手を見るスケールのデカさに驚き、また「君を想えば立ち直れることだ」という絶対的なポジティブ・シンキングにも感心する。さらに「夜明けの来ない日はない」という歌が圧倒的に多い中で「朝日の昇らぬ日は来ても」と、悲観的な状況を否定せず、その上で「君の声を疑う日はないだろう」と、どこまでも相手を信じる言葉が綴られていて、(後略)
ぇ? この曲ポジティブ・シンキングなの? 私はこれを読んで、絶大なる違和感を覚えました。ポジティブじゃないっしょ。ネガティブっしょ。
そんな風に思ったのが、そもそもの始まりでした。そして、そもそもの間違いでした。
(追記:ご本人いらっしゃいました。コメント欄ご覧ください。)

歌詞はこちら→http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND117092/index.html
構成はこちら→A-B-サビ-A-B-サビ-B-サビサビ

Aメロのネガティブ

つのはず誠さんが引用したのは、この曲の歌詞の最初の連です。

望みは何かと訊(き)かれたら 君がこの星に居てくれることだ
力は何かと訊(き)かれたら 君を想えば立ち直れることだ

1行め。望みを訊かれて「君がこの星に居てくれることだ」と答えるのはどういうシチュエーションでしょう。「君」っていったらふつうは目の前にいる相手を表すときに使う言葉ですから「君がこの星に居てくれること」は、一般的に考えれば当然なことです。
でも「君がこの星に居てくれることだ」と答えるのはなぜでしょう? それは、当然だと思っていた上記のことが、当然ではなくなったから。つまり、君がこの星からいなくなってしまったか、少なくともそれが脅かされたことをこの歌詞は暗に表しています。そして、この星にいないのなら、存在しないのと同じようなものです。
2行めも見ましょう。「君を想えば立ち直れることだ」。私が注目したのは「立ち直れる」です。goo辞書の大辞泉によると「立ち直る」は、


1 倒れそうになったものが、もとに戻る。
2 悪い状態から、もとの状態に戻る。
とあります。どちらも悪い状況からスタートして、元に戻るときの動作を描いています。
この単語は悪い状況を前提としています。「君を想えば立ち直れることだ」と歌うのはとても力強くはありますが、その後ろにある暗い影から、目を背けるわけにはいかないです(>_<)。
この曲はそんな風に、言葉に直接に現れないところが、とてもとても暗いのです。

"Bメロのネガティブ

1番のBメロも読み進めてみます。

僕は走っているだろう 君と走っているだろう
あいだにどんな距離があっても
僕は笑っているだろう 君と笑っているだろう
あいだにどんな時が流れても

こんな感じ。ところで、2番のAメロも引用してみます。

朝陽の昇らぬ日は来ても 君の声を疑う日はないだろう
誓いは嵐にちぎれても 君の声を忘れる日はないだろう

1番のBメロ以降、サビ以外の部分はすべて「(たとえ)××でも ○○だろう」または「○○だろう (たとえ)××でも」という言い回しだけで構成されています。
同じ文のつくりをしているのなら、その構図は同じになるはず。
そういう期待を込めて、ここから先を読んでみます。

朝陽の昇らぬ日来ても 君の声を疑う日はないだろう
誓いは嵐にちぎれても 君の声を忘れる日はないだろう

2番のAメロですが、最初は「○○だろう」部分、つまり「君の声を疑う日はない」に注目しましょう。
これまで、斉藤和義『やさしくなりたい』サンボマスター『世界はそれを愛と呼ぶんだぜ』や、AKB48『10年桜』とかでも取り上げてきたように、否定文って一度 文章の意味の内容を肯定の状態で飲み込んでから、それをひっくり返しにかかります。
だから「君の声を疑う日はない」と書いてあったら、その前提として「君の声を疑う日があった」と読み取れるはずです。実際そういう経緯がないと、こういう言い回しはしないはずです。
それは2行めも同じです。「君の声を忘れる日はないだろう」と書いてあるということはつまり、君の声を忘れた日があったか、少なくともその記憶の確かさが揺さぶられてしまったことがあると読むことができます。
さらに、「××でも」部分も同じように考えてみます。
「朝陽の昇らぬ日来ても」って部分、ここが「が」ではなくて「は」になっているのは、すごく重要だと思います。
「朝日の昇らぬ日」は、この文の主題にあたります。益岡・田窪『基礎日本語文法-改訂版-』によると、


主題になるための必要な条件として、取り上げられる名詞が、話の流れ、発話場面の状況、常識などから、どの対象を指し示しているのかが特定できるものでなければならない。
ということです。
私には「朝日の昇らぬ日」がどんな日なのか「特定」できませんが、この曲では主人公はそれを特定できると考えています。「が」ではなくて「は」が使われているのには、そういう理由があるからです。
つまり、主人公は「朝日の昇らぬ日」を経験したということかもしれません。
ここから、もっと大風呂敷を広げることができそうです。
この曲にはたくさんの「××でも」という部分があります。この「××でも」部分には、実際に起きた出来事が入るのではないでしょうか。
探ってみると、かなり多くの「××でも」があって、ぜんぶがきれいに符合します。

僕は走っているだろう 君と走っているだろう
あいだにどんな距離があっても

つまり、主人公と「君」との間には距離があるということ。

僕は笑っているだろう 君と笑っているだろう
あいだにどんな時が流れても

つまり、長い時が流れたということ。

朝陽の昇らぬ日は来ても 君の声を疑う日はないだろう

先ほども触れたように、朝日の昇らぬ日は来たのだということ。

誓いは嵐にちぎれても 君の声を忘れる日はないだろう

そして、誓いは嵐にちぎれたのだということ、です。

サビのネガティブ

荒野より君に告ぐ 僕の為(ため)に立ち停(ど)まる
荒野より君を呼ぶ 後悔など何もない

サビの歌詞はこれだけです。2行とも否定文なので、その後ろ側をのぞいてみます。
「僕の為(ため)に立ち停(ど)まる」と「君」に告げているということは、つまり「君」は主人公のために立ち止まっているのだということ。そして、「後悔など何もない」ということはつまり、後悔がある、ということです。
「後悔がない」と歌っているのに、後悔があるという風に読むなんて、すごくあまのじゃくに見えます。後悔はないって言ってんだから、ないものはないでしょ!って読みも、一般論としてはアリです。でも、ことこの歌詞に限って言ったら、やっぱり後悔はしていそうです。
「望みは何かと訊(き)かれたら 君がこの星に居てくれることだ」と曲の冒頭にありました。「君」がこの星に存在しないと言い切れるわけではありませんが、それでも君の存在は少なくとも一度は揺らいでしまったことは、よくわかります。
主人公が「君」を想って立ち直っているから、少なくとも主人公のそばに「君」はいないみたい。
それに、1番のBメロから、距離の面でも時間の面でも、二人の間に大きなギャップがあることはわかります。
なのに、君に告げたり呼んだりしているあたり、やはり主人公は君のことをあきらめてはいないのです。


前にポケットビスケッツ『Red Angel』を読んだとき、

なにも恐く なんかないから
という部分がありました。私はこれを「強がりの定型句」と読みました。
「なんか」というのは「など」と同じ意味です。『荒野より』の「後悔などなにもない」も同じように、強がりみたいに読める感じがします。
それにもうひとつ、この歌詞にはある大事なことが書いてありません。

荒野より君に告ぐ 僕の為(ため)に立ち停(ど)まるな
荒野より君を呼ぶ 後悔など何もない

立ち停まらない「君」の行き先は、この歌詞には書いてありません。
それに、後悔ではない主人公の感情は、この歌詞には書いてありません。
もし未来に対して望みをつなぐ歌詞だったら、「君」の行き先を明示してもいいはずだし、主人公から「君」への後悔じゃない気持ちを綴ってもいいはずです。でもそんなことは書いてありません。
だから、主人公は未来に対して一切のビジョンがない…
あれ。

僕は走っているだろう 君と走っているだろう
あいだにどんな距離があっても
僕は笑っているだろう 君と笑っているだろう
あいだにどんな時が流れても

ビジョンここにあった。
「君」は立ち停まりません。その代わりに、主人公と走っている未来が見えます。
後悔などなにもありません。その代わりに、主人公と笑っている未来が見えます。
あれ。この部分、未来につながる部分じゃん。ポジティブさにつながる突破口じゃん。
ポジティブに見えて、やっぱりネガティブ。そんな風に私がこの歌詞を読んでいたのは、間違っていました。そうじゃなかったのです。ポジティブに見えてネガティブだけど、本当はそれ自体がもっと大きなポジティブにつながっていたんですね。

つながリンク

前回は斉藤和義『やさしくなりたい』を取り上げました。今回の中島みゆき『荒野より』との共通点は、たくさんあります。「ない」がたくさんあるところ。ポジティブとネガティブが交錯するところ。
やっぱり今年こういう状況で、無邪気に明るい曲は歌えないと思うのです。とはいえ、暗い曲を歌うわけにもいきたくない気持ちもよく分かります。いきおい、メッセージ性を持つうたはそのメッセージを、明るいほうにも暗いほうにも振り切れなくなってしまうんでしょう。
だから今回の2曲でいったら、たくさんの「ない」を連ねて、否定し続けて残った部分を浮き彫りにすることによって間接的にメッセージを伝えようとしています。
その前に取り上げたSalyu『青空』若旦那『青空』は両方とも今年の曲ですが、このふたつはどちらも、メッセージ性を持つことをやめて、自分の身の回りのことだけを描いています。そうすることで、変な自己保身を考えずに済むような、のびのびした歌詞になっています。
今年は社会全体を見据えて、底抜けに明るい曲は歌いづらい年でした、ってまとめてもいいかもしれないです。来年は、そうじゃないといいなあ。



ってことはあれじゃん。私が最初 目の敵にしてたつのはず誠は別に間違いじゃなかったじゃん。
ってツッコミが入りそうですが、なんか弁明できなさそうだから反論するのよします。いや、ほんとはできるんだけど別にケンカしたいわけじゃないし…(←小声)。
でもひとつ言わせてもらいたいんですが、

キャリア37年目にして通算42作目のシングル(ちなみに倖田來未は10月末現在デビュー11年目にしてシングル51枚で中島の約5倍ペース!)
コレ、どう計算しても4倍ってトコだと思うよ!
私はこの人の文章、とっても読みやすいとは思わないんですが、やっぱり商業ベースに乗っている(よね?)のなら、世の中的には私の文章よりも魅力的なのでしょうねぇ。自分の文章も読みづらいとは思うけれど、もっと読みやすい文章が書けるようになりたいなぁ。
荒野より

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