5日と20日は歌詞と遊ぼう。

歌詞を読み、統計したりしています。

植村花菜『トイレの神様』

-10分の枠の外へ続くストーリー-
こんにちは。私のアタマの中はクリスマスを通り越してもう年末です! なぜかって? 察してくださいね☆
さて、年末といえば紅白歌合戦。今年は5組の歌い手さんが初登場するそうですが、そのうちのひとりが植村花菜です。どの曲を歌うのかは明かされてないみたいですけど、さすがに植村花菜なら私でも予想がつきます! トイレの神様』でしょ♪
ってわけで、今回は『トイレの神様』を取り上げたいと思います。
トイレの神様(DVD付)
この曲、

トイレには
それはそれはキレイな女神様がいるんやで
だから毎日キレイにしたら
女神様みたいにべっぴんさんになれるんやで

そんな風に言う「おばあちゃん」との思い出を物語のように綴った曲です。
ところで、どうして女神様の居場所はトイレなんでしょう? どっちかっていうと神棚とかにいそうなのに。掃除の習慣は、トイレに限らず台所だって机の上だって大事なのに。
でも、この曲ではトイレです。どうして?
Wikipediaによると、この曲はご本人の実体験をもとにしたものなのだそうです。じゃあ、理由なんか気にしないで、おばあちゃんの発言をそっかぁ、って受け入れればいいのかな?
それでも私は気になるのです。考えたら答えが出ることなのかなぁ? そういうことを掘り下げるのがこのブログです。めげたりしません。
歌詞は事実そのものを描けません。歌詞になっている時点で事実は再構成されているのだし、私たちが接することができるのはそうしてできた作品のほうだけです。なら、歌詞を歌詞として楽しみましょう♪
シンプルな歌詞にシンプルなメロディ。そういう前評判を聞いていたし、ラジオでもそんな感じの曲かな?と思いながら流し聞きしてたので、ちょっとゆるゆるな気分だったかもしれません。読んでみてびっくりしました。
この歌詞、めっちゃよく練られてるじゃん!

歌詞はこちら→http://www.uta-net.com/user/phplib/view_0.php?ID=89774
構成はこちら→A-A-サビ-A-A-サビ-A-A-サビ-A-'A-(間奏)-C1-C2-サビ-サビ-A-アウトロ-アウトロ-アウトロ

どうしてトイレ?

さて、冒頭の疑問にさっそく向き合ってみたいと思います。どうしてトイレなの? やっぱりなんかの必然性はあるの? 考えてみて、私の結論はこうです:必然性あり。しかも、「人のやりたがらないことを積極的にやりましょう」なんていう話じゃない、もっと強い必然性です。
トイレって、排泄のための部屋です。そして考えれば考えるほど、この排泄のための部屋っていうトイレの立ち位置がすごく特別なもののような思えてきちゃうのですよ。
人間の生理的欲求のこと考えてみます。生理的欲求っていったら分類の仕方によっていくつかあるとは思いますが、食欲、睡眠欲、性欲などと並んで排泄欲は生理的な欲求の中でいったら外せない存在だと思います(たぶん…)。けどここに挙げたいくつかの欲求の中で、それ専門の部屋が用意されているのって排泄欲だけです。考えてみましょう。
食欲を満たすための部屋っていったらそれはダイニングのことです。でも、ダイニングってしばしばリビングといっしょになったりしますし、ダイニングでお友だちを迎えようが、テレビを見ようが、そんなことはおうちによって様々でしょう。
睡眠欲を満たすための部屋っていったら寝室のことです。でも寝室は寝るときにしか使わないのかっていうとそんなことはなく、たとえばワンルームのアパートだったら寝室はリビングになり、ダイニングになり…と七変化のひとつでしかありません。
でも、トイレは排泄のときだけ。しかも、排泄はトイレだけです。でしょ? アパートだったらお風呂とトイレが一体化しているところもしばしばありますが、できれば別にしたいと思っている人は世の中たくさんいますし、仮に一体化していたとしても、排泄以外の理由で便器に座ることはほとんどない、はず。それだけ、トイレは特別な部屋なのだと思います。
そんな重要な部屋なのに、私たちは日常的にはトイレを避けて通りがちです。間取りで考えればトイレってふつうは日当りなんか考えてもらえません。広くもないし、便利な場所にあるわけでもありません。そもそもトイレって呼び方がすごく婉曲的ですよね。寝室だったら寝るための室、リビングはliving roomの略だからリブするルーム。そんな風に言葉を解体して、なんとなくの語源にたどりつくのはわりとカンタンですが、トイレはどうでしょう? それは外来語だし、聞いただけじゃどういう出自の言葉なのか判然としません。その呼び名は内情を隠してよく分からなくしているのでした。
ま、トイレのことを便所ともいいますし、ほかの言い方もたくさんありますけど、「トイレ」がたぶんいちばん一般的ですもんね。そして「トイレ」からスタートする限り、私たちはそこから少しもトイレの本質に近づけやしません。
そんなトイレを掃除するよさを説くおばあちゃんは、トイレと向き合うように言っているのだと理解できます。そしてトイレって生理的な欲求と深く結びついたものだとすれば、トイレと向き合うことはつまり、生と向き合うことです。


トイレに限らず、さっき挙げた生理的な欲求のこと、私たちはなにかと避けて通りたがっているんですよね。例えば性に関するものの名前を考えてみましょう。そういう言葉、口にしなくても私たちはたくさん知っているわけですが、そのうちのかなりたくさんの言葉が外国語です。そしてその多くの日本語訳を、私は知りません。性に関する言葉はどっかのタイミングで外国語が多数派になってしまって、その分その言葉の指し示している本質はオブラートにくるまれてしまうのです。こんなことを話しながら性的な単語の具体例をひとつも挙げたりしない、私の態度だって同じです。
中川あゆみ『 事実 〜12歳で私が決めたコト〜』のときにも触れましたが、私たちは自分自身の境界線上のことについて、それを汚いと思う意識があるみたいです。たとえば髪。頭に生えているトキにはそれは別に汚いものでもなんでもなくて、ヘアスタイルってオシャレの大事な一ジャンルなわけですが、もしそれが1本落ちて、レストランのスープのお皿に浮かんだらどうでしょう? 「髪」は「髪の毛」になって、突然「汚いもの」に変化します。さっきまでステキなヘアスタイルの1本を担っていたとしても、です。
それは排泄に関してもっとずっとラディカルです。ついさっきまでカラダの中にあったモノが、出てきた瞬間から「汚いもの」に変わっています。
そんな自分の辺境の舞台がトイレだったりするわけです。自分の辺境を知ることは、自分自身の範囲を知ることです。トイレと向かうことって、自分自身と向き合うことなの、かも。

受け継がれる習慣

この曲、一読して「…分からない」って気分にならないのはすごくいいトコですよね。さらっと読んだらさらっとした理解で答えてくれます。そのかわり、ずんずん尋ねていったら、ずんずん深くまで答えてくれます。
Wikipediaによると、この曲の「一番の盛り上がり」は3番以降とのことなので、その辺を軸にしつつ、流れを振り返っておきましょう☆
小さいころ、おばあちゃんからトイレ掃除の秘密を教わった主人公は、

その日から私は
トイレをピカピカにし始めた
べっぴんさんに絶対なりたくて
毎日磨いてた

とあるように、毎日トイレ掃除に精を出したみたいに書いてあります。「べっぴんさん」の意味もよく分からずに磨いていたんだろうな、なんて想像するに微笑ましい気持ちになります。
ところが少し大人になると、

休みの日も家に帰らず
彼氏と遊んだりした

と歌われています。家に帰らないんだから、当然トイレも掃除しなかったんだろうと思います。おばあちゃんから主人公に受け継がれたように見えたトイレ掃除は、ここで一旦 途切れてしまっています。そしてそのまま、

ひとりきり
家 離れた

と、主人公は上京してしまうのでした。たぶん、トイレ掃除はしないままだったのでしょう。
ところが。物語は途切れたままでは終わらないのです。主人公はおばあちゃん入院の知らせを聞いて、故郷に舞い戻ってきます。この時点ではもしかしたら、トイレのことなどちっとも頭にのぼっていなかったかもしれません。ところがその翌日、おばあちゃんは亡くなってしまいます。

次の日の朝
おばあちゃんは静かに眠りについた
まるで まるで
私が来るのを待っていてくれたように

「まるで まるで/私が来るのを待っていてくれたように」という部分の前半は、わざわざほかとはメロディを変えて、おばあちゃんの最期を見届けることのできた奇跡を噛みしめるように歌われています。すごく巧みな表現です。
ともあれ、こうして主人公はもう一度だけ、生きているおばちゃんに会うことができました。その出会いは線でも面でもなくて、ほぼ点といっていいレベルだと思いますが、だからこそ奇跡のような響きが私たちのもとへ伝わってくるのだと思います。このあと何日もおばあちゃんが存命で楽しく話をすることができたとしたら、このぐっとくる感じは薄れてしまうでしょうね。

「もう帰りー。」って
病室を出された

という言葉のニュアンスまでは、方言を解さない私にはたぶん分からないのだと思いますが、「出された」という言葉の裏にある大きな越えられない壁のようなものはちゃんと感じることができます。
ところで、このおばあちゃんの最期を見届けることができたことについても、私は単なるエピソードを越える意味があるな、と思っています。間に合わなくて切ない、っていう物語じゃなくて本当によかったです。それはどうしてなのかというと、それがただ、ハッピーエンドだからだとか、そんな単純な話じゃありません。最後のAメロを見ると、

気立ての良いお嫁さんになるのが夢だった私は
今日もせっせと、
トイレをピカピカにする

という部分がありますね。「今日」も、主人公はトイレ掃除をしています。おばあちゃんの最期に間に合ったとき、トイレ掃除の習慣は主人公へと受け継がれたのでした。

受け継がれるバトン

かくして、トイレ掃除の習慣は主人公へと受け継がれたわけですが、この長い長い歌詞はそれだけでは終わりません。
Cメロって歌詞にも転換期が訪れやすいものです。先ほどCメロの1番めを引用しましたから、そのあとを追いかけてみましょう。「まるで まるで/私が来るのを待っていてくれたように」と畳み掛けるような上り階段がぐっと来る、その直後です。
Cメロの2つめ、

ちゃんと育ててくれたのに
恩返しもしてないのに
いい孫じゃなかったのに
こんな私を
待っててくれたんやね

さっきの「まるで まるで」もそうですが、この歌詞は畳み掛けるような表現が出てくるところに巧みさが光ります。いま引用した2つめのCメロも、「〜のに」という表現を繰り返して、こみ上げてくるおばあちゃんへの思いを表現力豊かに描写します。
主人公はおばあちゃんの最期に間に合いました。ですが間に合ったとはいえ、心残りばかりなのです。恩返しできなかった、という気持ちが心の中に沈殿します。
「いまからでも遅くはないさ♪」って表現はJ-POPにたくさん出てきますが、今回のこのシチュエーションではどう考えてもいまからじゃ遅くて、育ててくれたのに、恩返しもしてないのに、…という思いは、ともすれば宙に浮かんだまま宛先が見つからなくなってしまいます。
もやもやした気持ちの宛て先は、見つからないまま終わるのでしょうか。そんなことはありません。
じゃあ、どこへ?
ヒントは、この歌詞よりもあとにしか隠れていないはず。
次の連も、その次の連も、基本的にはこれまでにも出てきていた、サビのフレーズがリフレインします。おばあちゃんの言葉を引いて、それをサビのメロディに乗せた部分です。最初のこのフレーズが出てきたときには、回想の中での直接話法でしたよね。だからおばあちゃんの言葉そのままがにじみ出てくるような登場の仕方でした。
ところがCメロも終わったこの時点では、おばあちゃんは亡くなってしまっています。おばあちゃんの言葉はもうリアルタイムではなくて、回想の中でしか聞けません。それなのにこのフレーズがたっぷり2回も歌われます(ちょっと変化しますけど)。そんなほんのちょっとの積み重ねがいちいちすごいのですよねぇ。
そしてこのあと。さっきも引用したところですが、もう一度だけ引用してみてみましょう。

気立ての良いお嫁さんになるのが夢だった私は
今日もせっせと、
トイレをピカピカにする

アウトロに入る前の最後のAメロです。はっきりと、いまここにいる主人公がトイレ掃除をしているシーンが描かれていますね。ここだな、と私は思いました。
「気立ての良いお嫁さん」ってところに注目です。お嫁さんだから家事をする役割で、だからトイレを掃除しているのだとか、そんな判で押したような解釈を私はしません。お嫁さんです。お嫁さんってことは旦那さんがいて、夫婦はきっと新しい家族を築くでしょう。そこにはふたりの子どもがいます。子どもはいつか成長して、また愛する人を見つけて、結婚して、子どもを産んで。そしたら主人公はおばあちゃんになります。孫だったはずの主人公が、です。つまり、おばあちゃんから主人公へと受け継がれた伝統はたぶん、さらに新しい世代へとつながっていく、っていうことを暗示しているのだろうな、と思ったのでした。主人公は自分自身の生を生き、そしてそこに大きな流れを生かしているのでしょう。

つながリンク

前回のSOUR『日々の音色』と今回の曲との共通点は、「大切なもの」です。今回の曲は長いですが、3番のBメロWikipediaに言わせれば「一番の盛り上がり」を迎える直前に「大切なもの」があります。
一般論として、「大切なもの」なんて言葉はすごくふわふわしています。「大切」もざっくりした概念ですが、「もの」なんてもっと抽象的で、手に取りにくい言葉です。だからこんなフレーズを使ってしまったら、なんかいいことを言っているような気がしてもピンと来ないような、中身の薄いような、そういう歌詞になってしまいがちです。それをどういう風に乗り越えていけるのでしょう?
SOUR『日々の音色』では、

ReggaeDubHiphopTechnoLatin氾濫する価値の波間に
JazzRockPops Category no more 大切なものは何?

という部分で「大切なもの」が出てきます。たくさんの音楽のカテゴリを(スペースも入れずに)これでもかと羅列した上で、「大切なものは何?」と唐突に日本語が私たちに投げられます。たくさん出てきた中で、さあどれなんだ?といわれる気分。「何」の一文字が、「大切なもの」というふわっとした言葉をきゅっとしぼって、ちゃんと意味の流れに立脚したフレーズに変身させるのです。
一方で、植村花菜トイレの神様』は別の方法でこの「ふわっ」を回避しています。

どうしてだろう?
人は人を傷つけ、大切なものをなくしてく
いつも味方をしてくれてたおばあちゃん残して
ひとりきり
家 離れた

当該の連はこんな感じです。
「人は人を傷つけ、大切なものをなくしてく」なんて、行全体が「ふわっ」をまとっています。そんな耳あたりのいいような中身のない歌詞には興味ない、って人もいるかも。でもこの歌詞は違います。同じ連ですかさず、

いつも味方をしてくれてたおばあちゃん残して
ひとりきり
家 離れた

とつなげるんですから。ふわふわした一般論を述べたあとで、その通りになってしまう現実をすかさず見せつけるのです。こうすることで、ふわふわしきれない現実が私たちの目の前にはっきりと突きつけられます。その反転が、すごく鮮やかな歌詞でした。



というわけで、『トイレの神様』でした。
歌詞の善し悪しを論じたがる人の評価基準のひとつに「泣けるかどうか」っていう重要な軸がひとつあるみたいです。Youtubeのコメント欄を見ると、この曲が泣けるかどうかについてはすごくいろんな意見があるみたい。
でも、私はそれとはぜんぜん違う基準で、この歌詞を読みました。そして、すごくいいな、と思いました。ぶっちゃけ私はこの曲で泣いたりしませんでしたが、でもやっぱり、好きな歌詞だな、と思います。というか私はこのブログでは、歌詞の好きなところしか書かないんですが。
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