5日と20日は歌詞と遊ぼう。

歌詞を読み、統計したりしています。

スピッツ『チェリー』

-冬は春になり、願いは現実になる-
こんにちは!
インディゴ地平線
今回はスピッツ『チェリー』です。
J-POPの曲の中には、歌詞の解釈が語られる曲に定番があります。わたしにとって『チェリー』はそれです。だからこそちょっとだけ背筋が伸びる思いでこれを書いています。
さてこの曲、

「愛してる」の響きだけで 強くなれる気がしたよ

というサビのフレーズです。
でもこの部分、ちょっと変じゃないですか?
強く「なれる」「気がした」「よ」って、どうしてこんなにあやふやな表現ばっかり付いているのでしょう? ぜんぜん強くなれている感じがしないじゃん!って思いません? 不思議なのです。
…その不思議さがいいんですけど、そんな疑問を抱えながら歌詞をもう一度 読んでみたら、ほかにも不思議なところはたくさんあります。なんなのスピッツ! 気になる!
歌詞はこちら→http://www.uta-net.com/user/phplib/view_0.php?ID=9073
構成はこちら→AA-サビ-AA-サビ-Cメロ-(間奏)-A'-サビサビ

歌詞

変わりゆく「君」、変われない「僕」

「君を忘れない」から始まるこの曲には、全体に「僕」が過去を振り返っている様子です。「君を忘れない」もそうですし、その部分ときれいに押韻している「二度と戻れない」もそうです。過去への重症の未練を残している様子です。
そして、そんな「僕」は「想像した以上に 騒がしい未来が僕を待ってる」と歌っています。過去に対しての思いを引きずり、未来に対しては受け身の「僕」がここに描かれています。

いつかまた この場所で 君とめぐり会いたい

最初のサビはこんな風に終わりますが、ここまでの話を考えると、これってすごくはかない望みに見えます。過去を振り返ってばかりなのですから「君とめぐり会いたい」なんて夢、叶うわけないじゃん!とか思ってしまいます。

そんな「僕」とは対照的に、「君」はもっとアクティブです。

君を忘れない 曲がりくねった道を行く

この曲の1行めで「曲がりくねった道を行く」のは、「君」です。だって「僕」は先ほど「この場所」で君とめぐり会いたいとか考えながら立ち止まっていたわけですから。「君」は明らかに先を行っています。

つまり、「君」が変わっていく一方で、「僕」は変われないでいるのです。

「強くなれる気がしたよ」はどうして?

最初の疑問に立ち返ってみましょう。

「愛してる」の響きだけで 強くなれる気がしたよ

というこの歌詞、やっぱりちょっとおかしな感じがします。
直球のラブソングなら「愛してる」とだけ歌えばとびきりストレートです。
なのに「の響き」「強くなる」「気がした」「よ」と、どんどん弱気なフレーズがくっついてきます。
なぜこんな弱い表現を使うのでしょうか。
「強くなる」が言い切りすぎて恥ずかしいとかだったとしても、「強くなった」でも「強くなれるよ」でも、ほかによい表現はいくらでもあるはず。なのに「強くなれる気がしたよ」では、実際には強くなれていない気配すら漂います。一番人々の耳に届くであろう、サビのキメキメなフレーズのはずなのに?
わたしが考えたのは、実際には強くなれていなかった、ということでした。「愛してる」の響きだけで強くなれる気がしたけれど、実際には強くなんてなっていなかったわけです。
「強くなれる気がし“た”」ですから、この気持ちは君といっしょにいたころのものみたい。「愛してる」の気持ちを確認し合うたびに、「強くなれる気がした」(けれど実際には強くなどなってはいなかった)という意味だったとしたら、この直後の部分との整合性が見えてきます。

ささやかな喜びを つぶれるほど抱きしめて

仮に「僕」が本当に強かったとしたら、ささやかな喜びにすがることなんてないような気がしませんか? でも、実際にはすがっています。
つまり、実際にはささやかな喜びもつぶれるほど抱きしめちゃうぐらいに、「僕」は強くなかったのです。

『チェリー』を探して

変わりきれず、強くもなれず、ひどい感じの「僕」です。でもネガティブな状況は、そっから先ポジティブにしか変わり得ないはず。この曲もポジティブに終われるでしょうか。
状況が好転する瞬間は、割とCメロに訪れます。Cメロは、

どんなに歩いても たどりつけない 心の雪でぬれた頬
悪魔のふりして 切り裂いた歌を 春の風に舞う花びらに変えて

こんな歌詞です。ぴんと来ない表現がたくさんあるように見えます。
「心の雪」「悪魔」「切り裂いた歌」…?
こういう唐突な表現は、なにかのたとえかもしれません。そう思って周りを見てみると、「切り裂いた歌」に似た、こんな表現があります。

あの手紙はすぐにでも捨てて欲しいと言ったのに

3連の2行めです。手紙を捨てることと、歌を切り裂くこと。
手紙と歌も似ていますし、捨てると切り裂くもよく似ています。ここは同じような内容かも。
そう思ってこの近くを見てみると、すぐ次の行に「冷たい水」が出てきます。あれっ? 「冷たい水?」って…Cメロでいったら「心の雪」!?

こうやってたどってみると、Cメロと3連は似ている部分がかなりたくさんあります。
そういう視点で考えてみれば、Cメロの「どんなに歩いても たどりつけない」は、3連の「少しだけ眠い」と似ているような気にもなってくるし。
その共通点は、冷たくて、無力感があって、明るくない感じ。

でも、Cメロは、こんな風に終わるのです。

悪魔のふりして 切り裂いた歌を 春の風に舞う花びらに変えて

と。
この行の前半はまだ暗い3連の雰囲気を引きずっていますが、切り裂いた歌は「春の風に舞う花びら」に変わってしまうのです。
劇的な変化だと思いませんか?
Cメロの1行めでは「心の雪」にぬれた冷たい冬だったのに、それが急に春へと変わってしまうのです。
この曲の全体を通じて、タイトルをダイレクトに想起させるのはこの部分だけです。『チェリー』とは桜のこと。春の風に舞う花びらといったら、最初に思い浮かぶのはだれでも桜ではないでしょうか。Cメロの2行目は1行目に続いて冬のイメージを抱えていたはずなのに、それが急に、しかも美しいかたちで春を迎えるなんてすごくステキです!
ふつう冬が通り過ぎたら、春はやってきます。
曲の中で、冬が春に変わったら、状況は好転するのかな?

「君」はどこにいるんだろう

Cメロが終わると3番です。
そのあと最後の連の前半にかけて、1番と同じ歌詞が飛び飛びで出てきます。
1番はこうでした。

君を忘れない 曲がりくねった道を行く
産まれたての太陽と 夢を渡る黄色い砂
二度と戻れない くすぐり合って転げた日
きっと 想像した以上に 騒がしい未来が僕を待ってる

1番には「二度と戻れない」ってフレーズがありました。

でも、3番はこうです。

君を忘れない 曲がりくねった道を行く
きっと 想像した以上に 騒がしい未来が僕を待ってる

3番は1番とよく似ています。
1番には「二度と戻れない」というフレーズがあったのに、よく似たのが再び出てきたのです。二度と戻れないんじゃなかったんだ!
ということは。

もしかして「僕」は「君」と再会できたんじゃないでしょうか。
1番がまた登場したってことは、また「君」を思い出したってことだからです。3番の部分はメロディこそAメロと同じですが、アレンジは違っています。新しいアレンジに乗っかってこのメロディが登場するのなら、「君」の思い出し方も新しくなったはずです。
例えば、二度と会えないと思っていた「君」の姿を、再び見つけた、とかって読みはどうでしょうか。

  *  *  

結局 わたしには「君」の正体がよく分かんないのです。ですが、ちょうど「君」が登場するシーンは冬から春に変わるところだ、ってことは注目です。ついでにそこには「花びら」って言葉が出てきて、それを見たわたしたちはタイトル『チェリー』を想起しちゃうようになってる仕掛けにも要注目です。
Cメロから間奏にかけての部分だけで、冬は春に変わり、『チェリー』が登場し、「君」が現れた気配が残るのです。この曲のあらゆる伏線が、ここでクロスしているのです!

大サビの最後は歌詞が変わって、

ズルしても真面目にも生きてゆける気がしたよ
いつかまた この場所で 君とめぐり会いたい

になります。2番のサビだったら、

“愛してる”の響きだけで 強くなれる気がしたよ
いつかまた この場所で 君とめぐり会いたい

という歌詞でした。前半の歌詞が変わりました。

新しい前半「ズルしても真面目にも」。
この揺れる感じは、「君」が消えていった「曲がりくねった道」となんだか似ています。「僕」は春にもう一度「君」の姿を見つけて、そしてついに「君」と同じ場所に立つことができるようになったんだ、とわたしは思います。
なら、だからこそ最後の最後、

いつかまた この場所で 君とめぐり会いたい

が光ります。最初に出てきたときには、このフレーズは叶わぬ夢としてため息のように心に積もります。再び登場した今、同じフレーズであるはずのこの言葉が、鮮やかな未来を予言するかのようにわたしたちのもとへ響いてくるのです。

まとめ

最後に、前回の曲との比較をしてみましょう。前回の曲は、レミオロメン『3月9日』でした。共通点はたくさんあるのですが、「強くなる」というフレーズに注目してみましょう。
『3月9日』では、

瞳を閉じれば あなたが
まぶたのうらに いることで
どれほど強くなれたでしょう

というように、サビの部分に「強くなる」が出てきます。瞳を閉じた世界は、よいものとして描かれていて、その一番 奥にいる「あなた」が強さを与えてくれる、という構図になっています。
一方で『チェリー』においてはそんな風になりません。そもそも強さは勘違いだったみたいです。でも、そこに暗い感じはありません。強さを捨て去ってしまった後で、「ズルしても真面目にも生きてゆける気がしたよ」という表現が出てきて曲が終わります。きっと強さは、サビの最後に出てくる「真面目」と同じようなものなのでしょう。強さはよいものとして描かれているのではなくて、愚直さだったり、変化への対応力の弱さだったりを表していたみたいでした。そして『チェリー』では、強さを捨て去って初めて、「僕」は「君」に出会うことができたのでした。
このように、『3月9日』と『チェリー』とでは、強さの捉え方がかなり違っているみたいです。『チェリー』みたいな立ち位置の方が特殊なのかなあ? 自信はないですが、そんな気がします。
それにしても、『チェリー』は本当にいろんな読みを許容してくれます。わたしは今からでも、『チェリー』のぜんぜん違う物語を見いだしたりできるような気がしています。今回は「君」≒桜、と捉えましたが、例えば「僕」≒桜、とか。でもそれはまた別の機会にします。



結構ボリュームのある分量になってしまいましたが、少なくともわたしが自分で書き直しする前よりは読みやすくなってる…はず。さて、一通り書き終えたので、わたしは今からネットを探って、いろんな人の『チェリー』読みを探してみたいなと思います。
インディゴ地平線

インディゴ地平線

  • アーティスト:スピッツ
  • ユニバーサル ミュージック
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https://itunes.apple.com/jp/album/cheri/id129767414?i=129767452&uo=4&at=10lrtS

2016/05/04書き直しました。