5日と20日は歌詞と遊ぼう。

歌詞を読み、統計したりしています。

スキマスイッチ『奏』

-旅立つ「君」と上手に別れる方法-
奏(かなで)
今回はスキマスイッチ『奏』の歌詞を読んでみたいと思います。
出会いと別れの季節には、こういう曲がお似合いです。
この曲は、

君が大人になってくその季節が
悲しい歌で溢れないように

という「君」への思いをつづった曲みたい。
でも、気になります。「君」っていったいだれなのでしょう。「君が大人になってく」という表現をするということは、ええと…親子? それとも、恋人? それともそれとも? これが案外 一筋縄じゃいかないのです。今回はその答えを目指して考えていきます。

歌詞はこちら→http://www.uta-net.com/song/18718/
構成はこちら→Aメロ-サビ-Aメロ-サビ-(間奏)-Cメロ-サビ-'サビ

「僕」の焦り

この曲の最初はこんな感じ。

改札の前 繋ぐ手と手 いつものざわめき 新しい風
明るく見送るはずだったのに うまく笑えずに君を見ていた

たった2行で、たくさんのことがわかります。この曲の舞台は駅で、僕は見送り、君は旅立ちます。ああ、駅でお別れなんだ。私の頭の中には、なぜか桜の花が舞い散るイメージが広がってます。
でも僕はうまく笑えずにいます。サビの部分には、

最後に何か君に伝えたくて
「さよなら」に代わる言葉を僕は探してた

こんな表現があります。僕は上手に別れるための方法を見つけきれなくて、それで焦っている感じが見えますね。
その様子はCメロまでずっと続いています。

突然ふいに鳴り響くベルの音
焦る僕 解ける手 離れてく君
夢中で呼び止めて 抱き締めたんだ

引用したのはCメロの最初の3行です。僕にはぜんぜん余裕がないですね。離れていってしまう君の手がほどけて焦って、夢中で呼び止めたら急に抱きしめて、ベルの音を「突然ふいに」と表現しちゃうあたりも余裕ない感じの現れかもしれませんね。副詞がダブってるのってほんとはちょっと変。
でもその「ちょっと変」もぜんぶひっくるめて、この曲の大きな流れはちゃんとできています。 迫り来る別れの時に際して、僕の焦りが描かれてる、っていう大きなひとすじが、この曲の歌詞には流れています。

「君」のアブセンス

一方で君はどのような様子でしょうか。探してみてびっくりしました。この曲には、君の様子がまったく描かれていません。
確かに、「君」が主語になっている部分はいくつかあります。「君が大人になってく」とか。でもそれだけじゃ君の様子はちっとも分からないと思うのです。
じゃ試しに、いま大人やってるヒトに質問です。あなたはどうして自分が大人だといえるのですか? いつ、どの瞬間に大人になりましたか?
…私は意地悪です。“これをすれば大人になれる”っていうはっきりした動作が世の中にあるわけじゃないから、この質問にはちゃんとした正解がないと思うのです。いろんな行動の積み重ねの傾向が“大人”をかたちづくっている、としか、いえないですよね。だって、お酒を飲んだからって大人になれるわけじゃないし(大人はみんなお酒を飲んでるわけじゃありません)。飲酒だけじゃなくて、喫煙も、就職も、20歳の誕生日も、よくよく考えてみたら大人フラグとは無関係のはず。だから「君が大人になってく」と書いてあっても、君が今どんな様子でいるのかのヒントにはなりません。うーん。
ほかにはCメロ「離れてく君」という部分が、一応は「君」主語の部分です。でもここも、君の動作を表しているというよりも、“君と僕の距離”の話をしているに見えます。君を知るための手がかりは、直接的な表現としてはこの歌詞にはほとんど埋め込まれていません。この曲の間口を広げるためにわざと空白にしてるのかな? とか邪推しつつも、妄想の余地を広げてくれたのなら、それに応えてみたくもなっちゃいます。
君の手がかりがないのなら、その周囲の小道具から推測してみましょう。

突然ふいに鳴り響くベルの音
焦る僕 解ける手 離れてく君
夢中で呼び止めて 抱き締めたんだ

Cメロの「ベル」。私はこれに気づいてあっ!と思いました。
最初でも触れたように、この歌詞の舞台は駅です。だとすればこの「ベル」は、発車ベルかもしれないですね。それが突然に鳴り響いて、僕は君を抱きしめたとしたらどうでしょう?
ありふれた通勤や通学の電車であれば、発車ベルは「不意に」は鳴りません。だいたい扉が開いて数秒から十数秒したらベルが鳴って、そしてすぐに扉が閉まります。それは予定調和の世界です。この歌詞の世界とは、時間の感覚がなんだか合いません。
じゃあその電車が、特急電車や新幹線だったらどうでしょう。停車時間はさっきより長いですから、そのぶんベルは不意に鳴ります。ベルが鳴ってから抱きしめるぐらいの時間の余裕もあります。もしかして君は、そういう電車に乗り込もうとしているのではないでしょうか。つまり、普通の電車じゃ行けないぐらいの遠くへと、君は旅立とうとしているのかな?と思ったのです。

そして、「僕」のとまどいは?

これまで見てきたように、この歌詞では僕は焦りを隠しきれずにいます。でもこの曲の最後は、

ぼくらは何処にいたとしてもつながっていける

とくくられます。僕の焦りは歌詞の途中のどこかで吹っ切れたみたい。歌い方もちょっと落ち着いた感じで終わるしね。じゃあどこで吹っ切れた?
さっきも引用しましたが、焦りの核は、

最後に何か君に伝えたくて
「さよなら」に代わる言葉を僕は探してた

この辺りにあります。『「さよなら」に代わる言葉』を見つけたってことでしょうか。どこかに書いてあるかなあ?
私が見つけたのはCメロの最後、

君がどこに行ったって僕の声で守るよ

なんて、どうでしょう? 「守るよ」の「よ」って、呼びかけのときに使う助詞ですよね。こういう単語が出てくるのは、この曲でたぶんここだけです。「守るんだ」ではなくて、「守るよ」という表現になっているのは、表現のあて先が君のほうへ向かっているからではないでしょうか。つまり「君がどこに行ったって僕の声で守るよ」というフレーズこそ、ずっと探していた、君へのメッセージだったんじゃないかな、と私は思ったのでした。

つまり、「君」はだれ?

さて、いったい君はだれなんでしょう? 恋人? 親子?
恋人説にしても、親子説にしても、どうも私の中には違和感が残ります。なぜかというと、僕は君のことを”守るべき対象“として捉えているからです。恋人だったとしたらこの不釣り合いな関係はちょっと変な感じ。親子だったとしたらそれもありかもしれませんが、遠くに旅立つ子どもの力を、ちょっとぐらい信用してあげたっていいはずなのに。
それに、もうひとつ変なのは、歌詞の中での君の描写が極端に少ないことです。別れのシーンって、例えばBUMP OF CHICKEN『車輪の唄』のように、「君」の最後の姿をいろんな小さなエピソードで記憶に刻んでいきたくなると思うのです。
だとすれば、ここに出てくるのははヒトではなくて、もっと抽象的なものだったりして。例えば「君」が“うた”だったとしたらどうでしょう?
歌うたいがプロとしてデビューしたら、多かれ少なかれ、マーケティングのために、ブランディングのために、歌いたいうたが歌えなくなることがあるんじゃないでしょうか。「君が大人になってく」を、そう読み替えることができるんじゃないかと思ったのです。以降は完全に私の妄想です(ここ以前も私の妄想ですが)。
スキマスイッチは、プロとして評価を得るのと引き換えにして、歌いたいうたが自由に歌えなくなってきたことに気づきました。うたが「大人になってく」ことは、ある意味でうれしいことです。でもそれをどう考えていったらいいのか見つけきれない困惑を、歌い手は抱えています。
Cメロ最後のキラーフレーズ、

君がどこに行ったって僕の声で守るよ

も、なんだかそれなら筋が通る気がしません? 歌いたいうたがどこか遠くへ行ってしまいそうになっても、あるいは実際に行ってしまったとしても、「僕の声」で守っていけるから大丈夫だ、って気づいたわけです。たとえ「君」が大人になろうとも、「僕」と「君」には新しいつながり方があるってことが分かったのです。
しかも、もし君がうたなら、タイトル見てみて。『奏』ってタイトルもすごくお似合いじゃないですか♪

つながリンク

前回 取り上げたたむらぱん『ちゃりんこ』と、この曲との共通点は、“大人になる”というフレーズです。

大人になった僕だけど
まだまだ足りない僕だけど

という個所があるように、『ちゃりんこ』ではどうも“大人になる”ことに対してあまりポジティブな気持ちを持っていない模様。
一方『奏』ではどうなのかというと、君が大人になり、どうやら電車に乗ってどこか遠くへ行ってしまうようなのでした。僕はその事態に焦りを隠しきれずにいますが、「夢中で呼び止めて 抱き締めた」とき、やっとそれでも大丈夫なのだと気づくのです。
“大人になる”ってなんなのか、はっきり名状できる人は少ないと思います。でもこの2つの歌詞の中では、大人になることは“長く生きているとどうして通過しなくてならなくなる困難”、みたいな捉え方ができるんじゃないかなと思いました。重たい困難です。でもたむらぱんはそれを乗り越えて、「友達に会いに行く」勇気を手に入れています。スキマスイッチも最後には、「ぼくらは何処にいたとしてもつながっていける」と希望あふれるフレーズを残しています。どちらも、曲の冒頭の段階では大人になる前と後との間に断絶がありました。でも曲の終わりには、ちゃんとその断絶を乗り越えています。ステキな共通点ですね。
ところでふたりは、どういうきっかけで大変なところを乗り越えたんでしたっけ。『ちゃりんこ』では、「桜」でした。『奏』では「ベル」でしたね。どちらも自分の外面からの刺激がきっかけでした。でもそれを行動に変えたのは、主人公の内面からの力だったのでした。



次回は3月5日ごろにお届けします。次回は3ヶ月記念になりますね。なにかをしようと企んでますので、お楽しみに。
https://itunes.apple.com/jp/album/zou-kanade/id815407303?i=815407314&uo=4&at=10lrtS


(2011/04/10大幅に加筆修正しました。)